はじめまして。横浜で歯科クリニックを開業しております、佐藤佳織と申します。

患者さんから「先生はどうして歯医者さんになったのですか?」と尋ねられることがあります。そのたびに、私は少し考えた後、決まってこう答えるようにしています。「ある先生の言葉が、私の人生を変えたからです」と。

それは、歯科医師としての私の原点であり、今もなお診療室で患者さんと向き合う際の道しるべとなっている言葉です。今回は、私が歯科医を志した理由、そして私の人生を決定づけた恩師の言葉について、少しお話しさせていただければと思います。

私が歯科医を目指した原体験

小児喘息とコンプレックスだった「歯並び」

私が歯科医という仕事を初めて意識したのは、中学生の頃でした。
幼い頃から小児喘息を患っていた私は、常に口で呼吸をする癖がありました。その影響で、私の歯並びは少しずつ乱れ、いわゆる「出っ歯」の状態になってしまったのです。

思春期の多感な時期です。友達と話すときも、写真を撮るときも、無意識に口元を手で隠すようになりました。自分の笑顔に自信が持てず、いつしか人前で心から笑うことができなくなっていました。喘息の苦しさに加え、見た目のコンプレックスは、私の心を内向きにさせるには十分すぎる理由でした。

矯正歯科の先生との出会いが変えた価値観

そんな私を見かねた母が、ある日、矯正歯科へ連れて行ってくれました。
そこで出会ったのが、私の人生で最初の「恩師」と呼べる先生でした。初老の穏やかな男性医師でしたが、私の口元を見るなり、こうおっしゃったのです。

「大変だったね。でも、大丈夫。これから一緒に頑張れば、必ず綺麗な歯並びになるから。そうすれば、もっともっと素敵な笑顔になれるよ」

その先生は、ただ歯並びを治すだけでなく、私の心の奥にあるコンプレックスまで、優しく受け止めてくださいました。治療計画の説明も丁寧で、私が抱える不安や疑問に一つひとつ真摯に答えてくださる姿に、いつしか私は絶大な信頼を寄せるようになっていました。

数年間にわたる矯正治療は、決して楽なものではありませんでした。しかし、装置が調整されるたびに少しずつ歯が動いていく実感と、先生の励ましが、私を支えてくれました。そして、すべての治療を終え、装置が外れた日。鏡に映った自分の歯並びを見たときの感動は、今でも鮮明に覚えています。

何より嬉しかったのは、心の底から思いきり笑えるようになったことでした。たった数本の歯が動いただけなのに、まるで世界が明るくなったように感じたのです。

歯科医という仕事への憧れと現実

この経験を通じて、私は「歯科医は、ただ歯を治すだけではない。人の人生を、笑顔を、前向きに変えることができる素晴らしい仕事だ」と強く感じるようになりました。そして、いつしか「私もあの先生のような歯科医になりたい」と、ごく自然に歯学の道を志すようになっていました。

恩師の言葉「患者さんの人生を診なさい」との出会い

理想と現実のギャップに悩んだ大学時代

大きな夢を抱いて入学した歯学部でしたが、現実は想像以上に厳しいものでした。
覚えるべき専門知識は膨大で、来る日も来る日も、歯の模型を削る実習に追われる日々。ミクロン単位の精度を求められる作業に、私は次第に「歯科医療とは、なんて細かく、閉鎖的な世界なのだろう」と感じるようになっていました。

「人の人生を前向きに変えたい」という大きな理想と、目の前の模型の歯という小さな世界とのギャップ。私は、自分が本当にこの道でやっていけるのか、自信を失いかけていました。

「口の中だけを診るな」という言葉の衝撃

そんな悩みを抱えていた大学5年生の臨床実習でのことです。
指導教官だった歯周病学の教授に、私は自分の悩みを打ち明けました。私の話を黙って聞いていた教授は、実習室の窓から外を眺めながら、静かにこうおっしゃいました。

「佐藤君、君はまだ口の中しか見ていない。それではダメだ。我々の仕事は、口の中の病気を治すことじゃない。その先にある、患者さんの人生を診ることなんだ」

衝撃でした。
当時の私にとって、歯科医の仕事とは「口の中」で完結するもの。歯を削り、詰め、入れ歯を作る。それがすべてだと思い込んでいました。しかし、教授の言葉は、私の凝り固まった価値観を根底から覆したのです。

初めて腑に落ちた、歯科医療の本当の意味

教授は、続けてこう話してくださいました。
「一本の歯が痛むだけで、美味しい食事ができなくなる。歯周病で口臭が気になれば、人と話すのが億劫になる。歯を失えば、思いきり笑えなくなる。それは、その人の人生の質(QOL)を大きく損なうことなんだ。だから我々は、歯を診るんじゃない。歯を通して、その人の生活を、人生を診なければならないんだよ」

この言葉を聞いた瞬間、目の前の霧が晴れるような感覚を覚えました。
中学生の私を救ってくれた矯正歯科の先生がしてくださったこと。それはまさに、私の「人生」を診てくれていたのだと、この時初めて理解できたのです。

この日を境に、私の歯科医療に対する見方は180度変わりました。目の前の患者さんの口の中には、その方のこれまでの人生、そしてこれからの人生が詰まっている。そう思うと、日々の臨床実習にも、新たな意味とやりがいを見出すことができました。

「人生を診る」とはどういうことか?臨床現場での気づき

一本の歯から見える、その人の生活背景

大学を卒業し、臨床の現場に立つようになってから、恩師の言葉の意味をさらに深く実感するようになりました。患者さんの口の中は、まさにその方の「人生の履歴書」です。

  • 歯のすり減り方からは、食いしばりの癖やストレスの度合いが
  • 歯石のつき方からは、日々の歯磨きの習慣や食生活が
  • 詰め物の種類や状態からは、過去に受けた治療の経緯や経済的な状況まで

一本の歯、一つの所見から、その方の生活背景や価値観、抱えている悩みまでが見えてくることがあります。だからこそ、私たちは丁寧なコミュニケーションを通じて、患者さん一人ひとりを深く理解することが何よりも大切だと考えています。

事例1:入れ歯が合わないおばあ様と「食の楽しみ」

以前、私のクリニックに「入れ歯が痛くて、食事ができない」と訴える80代の女性が来院されました。お口の中を拝見すると、確かに入れ歯が合っておらず、歯茎が赤く腫れています。

すぐに入れ歯の調整を行いましたが、私はふと、おばあ様の寂しそうな表情が気になりました。
「最近、何か美味しいものは召し上がりましたか?」
そう問いかけると、おばあ様はポツリポツリと話し始めてくださいました。

昔は料理が大好きで、家族に手料理を振る舞うのが何よりの楽しみだったこと。しかし、ご主人を亡くされてからは料理をする気力もなくなり、入れ歯が合わなくなってからは、柔らかいものばかりを食べるようになったこと。今では、食事をすることが「楽しみ」ではなく「苦痛」になってしまった、と。

私は、ただ入れ歯を調整するだけでは、この方の本当の問題は解決しないと感じました。そこで、管理栄養士とも連携し、食べやすく栄養のあるレシピを提案したり、地域の料理サークルを紹介したりしました。

数ヶ月後、定期検診に来られたおばあ様の表情は、見違えるように明るくなっていました。「先生のおかげで、また料理をする楽しみができました。今度、サークルの仲間と旅行に行くんです」と嬉しそうに話してくださる姿に、私は胸が熱くなりました。

事例2:歯周病に悩む働き盛りの男性と「生活習慣」

40代の会社員の男性は、重度の歯周病に悩んでいました。歯磨き指導やクリーニングを繰り返しても、なかなか改善が見られません。

ある日の診療で、私は思い切って仕事の様子を尋ねてみました。すると、彼は長時間労働が続き、ストレスから喫煙量が増え、食事も不規則になっていることを打ち明けてくれました。歯を磨く時間も気力もない、というのが本音だったのです。

歯周病は、生活習慣病の一つです。彼の歯周病を根本的に改善するには、口腔ケアだけでなく、生活習慣そのものを見直す必要があることは明らかでした。

私は彼に、歯周病が糖尿病や心筋梗塞といった全身疾患のリスクを高めることを、データを示しながら丁寧に説明しました。 そして、まずは「5分早く起きて、朝食後にゆっくり歯を磨く時間を作ること」から始めてみませんかと提案しました。

最初は半信-疑だった彼ですが、少しずつ生活習慣の改善に取り組み始めました。すると、驚くほど歯茎の状態が良くなっていったのです。口腔環境の改善が自信につながり、彼は禁煙にも成功。今では、会社の定期検診で「健康優良児です」と笑っています。

事例3:お子さんの虫歯から見えた「家族の関わり」

小学校低学年の女の子の、仕上げ磨きをしていたお母様から「こんなに頑張っているのに、どうして虫歯になるんでしょう」と相談を受けたことがあります。

確かにお子さんの歯は綺麗に磨かれていました。しかし、詳しくお話を聞くと、ご両親が共働きで忙しく、お子さんはおやつに甘いジュースやスナック菓子を一人で食べることが多い、という生活背景が見えてきました。

虫歯は、単に歯磨きだけの問題ではありません。食生活や生活リズムが大きく関わっています。
私はお母様に、虫歯の原因は「歯磨き」だけではないこと、おやつの時間や内容を見直すことの重要性をお伝えしました。そして、ご家族で一緒に楽しみながら取り組める「おやつカレンダー」を提案しました。

次の検診で、お母様は「家族で食生活について話す、良いきっかけになりました」と笑顔で報告してくださいました。お子さんの虫歯予防を通じて、家族のコミュニケーションが深まったのです。

歯は「老後の資産」。未来を変える口腔ケアの重要性

全身の健康と口腔環境の密接な関係

これまでの事例からもわかるように、お口の健康は、単に「歯」だけの問題ではありません。全身の健康、そして人生の質(QOL)そのものと深く結びついています。

近年、様々な研究によって、口腔環境が全身の健康に大きな影響を及ぼすことが科学的にも証明されてきました。特に、歯周病は様々な全身疾患との関連が指摘されています。

歯周病との関連が指摘される主な全身疾患
糖尿病
心筋梗塞・脳梗塞(動脈硬化性疾患)
誤嚥性肺炎
骨粗しょう症
関節リウマチ
認知症
早産・低体重児出産

(出典:日本歯周病学会などの情報を基に作成)

歯周病菌が歯茎の血管から体内に入り込み、全身を巡って様々な臓器で悪影響を及ぼすことが分かってきています。つまり、お口のケアを怠ることは、全身の病気のリスクを高めることにつながるのです。

特に注意したい、認知症・糖尿病と歯周病の関連性

中でも、私がシニア層の口腔ケア専門家として特に警鐘を鳴らしたいのが、「認知症」と「糖尿病」との関連です。

認知症との関連
複数の研究で、歯を多く失った高齢者ほど認知症のリスクが高まることが報告されています。 咀嚼(そしゃく=噛むこと)は脳を刺激し、活性化させる重要な働きを担っています。歯を失い、よく噛めなくなることが、認知機能の低下につながる可能性があるのです。
また、歯周病菌がアルツハイマー型認知症の原因物質の蓄積に関与している可能性も示唆されています。

糖尿病との関連
歯周病と糖尿病は、相互に悪影響を及ぼしあう「負のスパイラル」の関係にあることが知られています。

  • 糖尿病の人は免疫力が低下しやすく、歯周病が悪化しやすい。
  • 重度の歯周病があると、炎症によってインスリンの働きが妨げられ、血糖コントロールが困難になる。

逆に言えば、歯周病の治療をしっかり行うことで、血糖コントロールが改善する可能性があることも報告されています。 糖尿病の患者さんにとって、口腔ケアは治療の一環として非常に重要なのです。

介護現場で直面する「オーラルフレイル」という課題

近年、高齢者の健康を語る上で「オーラルフレイル」という概念が注目されています。 これは、お口の機能が些細なことで衰え始め、それが全身の衰え(フレイル)につながっていく状態を指します。

オーラルフレイルの主なサイン

  • 食べこぼしが増えた
  • 食事の時にむせやすくなった
  • 硬いものが食べにくくなった
  • 滑舌が悪くなった
  • 口が乾きやすくなった

(出典:日本老年歯科医学会などの情報を基に作成)

このような些細な「お口の衰え」を見過ごしていると、食事が十分に摂れなくなり低栄養状態に陥ったり、会話が減って社会的に孤立したりと、心身の活力がどんどん低下していきます。

私は、このオーラルフレイルの段階でいかに早く介入し、機能の回復を図るかが、健康寿命を延ばす上で極めて重要だと考えています。歯はまさに「老後の資産」。若いうちから予防意識を持ち、定期的なメンテナンスを続けることが、未来の自分への最高の投資になるのです。

これからの歯科医療と私が目指すもの

治療から「予防」へ、そして「共創」へ

日本の歯科医療は、かつての「悪くなったら治す」という治療中心の考え方から、「悪くならないように守る」という予防中心の考え方へと大きくシフトしています。 これは非常に喜ばしい変化です。

しかし、私はさらにその先へ進む必要があると考えています。それは、歯科医師が一方的に指導する「予防」ではなく、患者さんと歯科医師がパートナーとなり、一緒にお口の健康を創り上げていく「共創」という考え方です。

患者さん一人ひとりの生活背景や価値観を尊重し、対話を重ねながら、その方に合った最適なケアを一緒に見つけていく。 そのためには、私たち医療従事者にも、より高いコミュニケーション能力と、患者さんの人生に寄り添う姿勢が求められます。

患者さん一人ひとりの人生に寄り添うパートナーとして

恩師から「患者さんの人生を診なさい」という言葉をいただいてから、約30年が経ちました。
今、私は自分のクリニックで、まさにその言葉を実践する日々を送っています。

お口の健康を通じて、患者さんが美味しく食事をし、楽しく会話し、心から笑える毎日を送るためのお手伝いをすること。それが、歯科医師としての私の使命であり、最大の喜びです。

これからも、単に歯を治す「歯医者」ではなく、患者さん一人ひとりの人生に寄り添うパートナーでありたい。その想いを胸に、私は明日も診療室に立ち続けます。

おわりに:恩師の言葉を胸に、今日も診療室に立つ

私が歯科医になった理由。それは、一人の歯科医との出会いが私の人生を変えてくれたように、私も誰かの人生をより良くするお手伝いがしたい、と心から願ったからです。

そして、その道を照らし続けてくれているのが、「患者さんの人生を診なさい」という恩師の言葉です。この言葉は、これからも私の歯科医師人生の、永遠の道しるべであり続けるでしょう。

この記事が、皆さまご自身のお口の健康、そして人生について、改めて考えるきっかけとなれば幸いです。