「歯医者で定期的にクリーニングを受けたいけれど、保険が効くのか分からない」「予防のために通いたいのに、虫歯がないと診てもらえないの?」――こうした疑問やもどかしさを感じたことはないでしょうか。

はじめまして。歯科医師の佐藤佳織と申します。東京医科歯科大学を卒業後、都内のクリニックで10年間の勤務医経験を経て、2005年に横浜で開業いたしました。以来20年にわたり、予防歯科と歯周病治療を中心に、日々患者さんのお口の健康と向き合っています。2012年からは医療系Webメディアへの寄稿も行い、「もっと多くの方に歯の大切さを知っていただきたい」という思いで情報発信を続けてまいりました。

私のクリニックにも、40代、50代になって初めて「もっと早く予防に取り組んでおけばよかった」と後悔される患者さんが大勢いらっしゃいます。実は、その後悔の背景には、日本の医療制度が抱える構造的な問題が深く関わっています。

この記事では、30年間の歯科医としてのキャリアを通じて見てきた「日本の保険診療で予防が進まない理由」を、制度の歴史から最新の改定情報、海外との比較まで、できるだけ分かりやすくお伝えします。最後まで読んでいただくことで、ご自身やご家族の歯を守るために今日からできることが見えてくるはずです。

そもそも日本の保険制度は「治療ありき」で設計されている

まず知っていただきたいのは、日本の保険制度はその成り立ちからして「予防」を想定していなかったという事実です。これは歯科に限った話ではなく、医療制度全体に共通する問題です。

1961年、国民皆保険制度が生まれた時代背景

日本の国民皆保険制度は、1961年に達成されました。当時の日本は高度経済成長の真っただ中で、人口構成も若く、医療の最優先課題は「病気になっても貧富の差なく治療を受けられること」でした。

1955年頃には、国民の約3分の1にあたる3,000万人もの人々が無保険の状態にあったといわれています。医療費が払えず命を落とすケースもあった時代ですから、「全国民が等しく治療を受けられる制度」を整備することが急務だったのです。

つまり、この制度は「すでに病気になった人を救う」ことを最大の目的として設計されました。病気にならないようにする「予防」という発想は、当時の社会状況では優先度が低かったわけです。

「病気になったら治す」が前提の出来高払い方式

日本の保険診療は「出来高払い方式」を採用しています。これは、治療行為をすればするほど診療報酬が発生する仕組みです。

歯科でいえば、虫歯を削って詰める、歯周病で歯石を取る、抜歯をして入れ歯を作る――こうした「治療」には保険点数がつきますが、「病気にならないための予防処置」には長い間、保険点数がほとんど設定されていませんでした。

この仕組みは、歯科医院の経営にも影響を及ぼします。予防に時間をかけても十分な報酬が得られないため、どうしても治療中心の診療体制になりがちなのです。

歯科保険に「予防」の項目がほとんど存在しない現実

この点について、もう少し具体的にお話しします。

保険診療には必ず「病名」が必要です。つまり、何らかの疾患が認められなければ、保険を使った診療ができないルールになっています。「今は健康だけれど将来のために歯のクリーニングをしたい」という場合、原則として保険の対象にはなりません。

これは私たち歯科医師にとっても、非常にもどかしい現実です。患者さんの歯を守りたいと思いながらも、制度の壁にぶつかることが日常的にあります。

予防歯科の現場で歯科医が感じている「制度のジレンマ」

日々の診療の中で、私たち歯科医師は制度と患者さんのニーズとの間で、常に板挟みの状態にあります。

クリーニングは本来「保険適用外」という事実

歯科医院でクリーニングを受けたことがある方は多いと思います。しかし、実は歯のクリーニングそのものは保険診療の項目として存在していません。皆さんが保険で受けている「クリーニング」は、多くの場合、「歯周病の初期治療」という名目で行われているのです。

そのため、以下のような経験をされた方もいらっしゃるのではないでしょうか。

  • 「次回は2〜3ヶ月以上空けてください」と言われた
  • 「1回で全部のクリーニングはできないので、2回に分けます」と言われた
  • 着色(ステイン)の除去は別料金と言われた

これらはすべて、保険のルールに沿って診療を行うための制約から来ています。

「歯周病の初期治療」名目でかろうじて行われている実態

現在の保険制度では、歯周ポケットの検査を行い、歯周病の所見があると診断した上で、「治療」として歯石除去やクリーニングを行うのが一般的な流れです。

私のクリニックでも同様です。患者さんの歯を守りたい一心で、保険の範囲内でできることを最大限行っていますが、制度上は「予防」ではなく「治療」として扱わなければなりません。

この仕組みには地域差もあり、保険の審査基準はお住まいの地域によって微妙に異なります。同じ内容のケアでも、ある地域では保険が通り、別の地域では認められないということも起こりえます。

診療報酬の壁 ― 予防に時間をかけても収益にならない

予防歯科を真剣に実践しようとすると、患者さん一人ひとりのリスク評価を行い、ブラッシング指導を丁寧に行い、生活習慣のアドバイスまで含めた総合的なケアが必要になります。

しかし、こうした時間と手間のかかるケアに対して、保険の診療報酬は十分とはいえません。保険診療における歯科の報酬は医科と比較しても低く設定されており、予防に力を入れるほど経営が苦しくなるという矛盾を抱えているのが実情です。

海外の予防歯科先進国と日本の決定的な差

ここで少し視野を広げて、海外の状況と比較してみましょう。日本との違いを知ることで、予防歯科の重要性がより鮮明に見えてきます。

スウェーデンの成功事例 ― 国家戦略が変えた口腔健康

予防歯科の先進国として世界的に知られるのがスウェーデンです。実は、スウェーデンも1960年代には日本と同様、多くの国民が虫歯や歯周病に悩まされていました。

転機となったのは1970年代です。スウェーデン政府は「虫歯と歯周病の予防」を国家戦略として掲げ、制度を大きく転換しました。「予防の父」と呼ばれるペール・アクセルソン博士の主導のもと、30年間にわたる大規模な予防プログラムが実施され、その効果は目覚ましいものでした。

現在のスウェーデンでは、20歳未満の歯科治療(矯正やインプラントを含む)がすべて無料です。20歳以上でも予防治療にかかる費用の7割を国が負担しており、国民の約9割が定期的に歯科検診を受けています。

日本とスウェーデンの比較

両国の違いを表で整理してみましょう。

項目日本スウェーデン
定期検診の受診率かつて約6%(近年改善傾向)約90%
80歳の平均残存歯数約15.6本(令和4年調査)約21本
歯科受診の主な目的治療(痛くなってから行く)が多い予防(痛くならないために行く)が主流
20歳未満の歯科治療費自治体により異なる(一部無料)すべて無料
予防治療の費用負担原則自費(一部保険適用)20歳以上も国が7割負担
予防歯科の認知度約20.9%約59.6%

この差は、高齢期の生活の質に直結します。日本でも定期的にメンテナンスを受けた人は80歳で平均23本の歯が残っていたのに対し、受けなかった人は7本しか残っていなかったというデータがあります。

アメリカ型の「予防しないと高くつく」モデルとの違い

一方、アメリカには日本のような国民皆保険制度がありません。治療費が非常に高額なため、「歯が悪くなる前に予防しよう」というインセンティブが自然と働きます。アメリカの定期検診受診率は約70%と高い水準にあります。

また、アメリカでは「歯が汚い人は自己管理ができない人」という社会的な認識が根強く、就職面接やビジネスシーンでの印象にも影響するため、国民全体の口腔ケアに対する意識が高いのが特徴です。

日本は国民皆保険のおかげで「安く治療が受けられる」一方で、それが「悪くなってから治せばいい」という意識につながってしまっている側面があるのです。

予防を怠ると全身の健康にも影響する ― 最新エビデンス

「たかが歯」と思われるかもしれませんが、近年の研究は、口腔の健康が全身の健康に深く影響していることを明確に示しています。

歯周病は糖尿病の「第6の合併症」

糖尿病と歯周病は、互いに悪影響を及ぼし合う関係にあることが分かっています。糖尿病の方は健康な方と比較して約2.6倍も歯周病にかかりやすく、歯周病が重症化すると血糖コントロールがさらに難しくなるという悪循環が生じます。

注目すべきは、糖尿病診療ガイドライン2024(日本糖尿病学会)において、「2型糖尿病患者に対する歯周治療」が推奨グレードAとして記載されている点です。歯周治療によってHbA1c(過去1〜2ヶ月の平均血糖値を反映する指標)が平均約0.5%低下するという知見が、複数のメタ解析で示されています。これは糖尿病の治療薬1剤分に匹敵する効果だともいわれています。

心疾患・脳卒中・誤嚥性肺炎のリスク増大

歯周病の影響は糖尿病だけにとどまりません。歯周病菌が血流に乗って全身を巡ることで、さまざまな疾患リスクが高まることが明らかになっています。

  • 歯周病がある人の心疾患リスクは約1.9倍
  • 脳梗塞のリスクは約2.8倍
  • 誤嚥性肺炎のリスクは約1.74〜4.5倍

特に高齢者の場合、口腔内の細菌が唾液とともに気管に入り込むことで起こる誤嚥性肺炎は、命に関わる深刻な問題です。日頃の口腔ケアが、そのリスクを大きく下げることができます。

歯の本数と認知症・要介護リスクの関係

ある研究では、残っている歯が19本以下で、かつ入れ歯などの補てん治療をしていない場合、認知症の発症リスクが最大1.9倍に、転倒リスクが2.5倍になることが示されています。

自分の歯でしっかり噛めることは、脳への刺激を維持し、栄養をきちんと摂取するためにも欠かせません。「歯を守ること」は、実は「全身の健康を守ること」であり、ひいては「自立した老後を過ごすこと」につながるのです。

私が恩師から教わった「患者さんの人生を診なさい」という言葉は、まさにこのことを指しているのだと、年を重ねるごとに実感しています。

変わり始めた日本の制度 ― 2020年〜2024年の診療報酬改定

こうした課題が山積する中で、日本の制度も少しずつではありますが変化してきています。ここでは、近年の重要な改定をご紹介します。

2020年改定:歯周病重症化予防治療の新設

2020年4月の診療報酬改定は、予防歯科に携わる私たちにとって画期的な出来事でした。この改定により、以下の内容が保険適用として認められました。

  • 歯科疾患の継続管理の推進
  • 歯周病重症化予防治療の新設
  • 口腔疾患の重症化予防、口腔機能低下への対応の充実

これにより、歯周ポケットが4mm未満(比較的軽度)の患者さんに対するメンテナンスや、初期虫歯へのフッ素塗布など、従来は保険適用外だった予防的な処置が一部保険でカバーされるようになりました。

「かかりつけ歯科医機能強化型歯科診療所(か強診)」の認定を受けた歯科医院であれば、より幅広い予防処置を保険の範囲内で提供できるようになったのも、この時期の大きな進歩です。

2024年改定:「口腔管理体制強化加算」の誕生

2024年6月の診療報酬改定では、「か強診」が「口腔管理体制強化加算(口管強)」に名称変更され、施設基準も見直されました。

この改定の特徴は、小児から高齢者まで全世代の口腔機能管理を評価する方向へと舵を切ったことです。特に注目すべき点は以下の通りです。

  • 小児の口腔機能発達不全への対応強化
  • 高齢者のオーラルフレイル(口腔機能の衰え)への対応充実
  • リハビリテーション病棟の患者に対する口腔管理の評価新設
  • 歯科訪問診療の評価見直し

これらは「治療から管理・予防へ」という方向性を示す重要な一歩です。

まだ残る課題 ― 真の予防は保険でカバーされるのか

とはいえ、現状の制度では「完全に健康な状態での予防処置」は依然として保険の対象外です。歯周病の所見がまったくない方がクリーニングを受けたい場合は、自費での対応となります。

また、厚生労働省の審議会では2026年度の診療報酬改定に向けた議論がすでに始まっています。国民医療費が過去最高の48兆円を超え、2040年には約70兆円に達すると予想される中で、「予防に投資して将来の医療費を抑える」という発想が制度にどこまで反映されるか、注視していく必要があります。

一方で、日本歯科医師会も2025年度の制度・予算要望書の中で、ライフコースを通じた口腔健康管理の推進やオーラルフレイル対策の充実を求めており、予防重視の流れは確実に強まっています。

今、読者ができること ― 歯科医からの3つの提案

制度の変化を待つだけでなく、今日からご自身でできることがあります。30年間、多くの患者さんと向き合ってきた経験から、3つの提案をさせてください。

かかりつけ歯科医を持ち、定期検診を習慣にする

まず最も大切なのは、信頼できるかかりつけ歯科医を持つことです。3ヶ月〜6ヶ月に一度の定期検診を習慣にすることで、虫歯や歯周病の早期発見・早期対応が可能になります。

2020年以降の診療報酬改定により、歯周病の所見がある方(実は成人の大半が該当します)であれば、定期的なメンテナンスを保険の範囲内で受けられるケースが増えています。「口腔管理体制強化加算」の認定を受けた歯科医院であれば、さらに充実したケアが可能です。かかりつけの歯科医院がこうした認定を受けているかどうか、一度確認してみてください。

自費でも受ける価値がある予防メニューを知る

保険でカバーされない予防処置にも、投資する価値のあるものがあります。

  • PMTC(プロフェッショナル・メカニカル・トゥース・クリーニング):専門的な器具を使った歯面清掃。バイオフィルム(細菌の膜)を徹底的に除去します
  • 唾液検査:ご自身の虫歯や歯周病リスクを数値で把握できます
  • フッ素塗布(高濃度):歯科医院で使用する高濃度フッ素は、市販品よりも高い予防効果が期待できます
  • マイクロスコープを使った精密検査:肉眼では見えない初期の問題を発見できます

自費のメンテナンスは1回あたり5,000円〜15,000円程度が相場ですが、虫歯治療1本分、あるいはインプラント1本が30万〜50万円かかることを考えれば、予防への投資は長い目で見ると非常に経済的です。

「歯は老後の資産」という意識を家族で共有する

私はいつも患者さんにお伝えしています。「歯は”老後の資産”です」と。

スウェーデンでは、歯1本の価値が300万円に相当するというレポートもあるそうです。28本の永久歯すべてを守り続けることができれば、8,400万円もの資産を持っているのと同じことになります。

大切なのは、こうした意識を家族全体で共有することです。お子さんの仕上げ磨き、ご両親の定期検診の付き添い、パートナーと一緒の歯科受診――ご家族みんなで口腔ケアに取り組む習慣が、一人ひとりの健康寿命を延ばすことにつながります。

まとめ

日本の保険診療で予防が進みにくい根本的な理由は、1961年に始まった国民皆保険制度が「治療」を前提として設計された点にあります。出来高払い方式の構造上、予防に対する経済的なインセンティブが乏しく、歯科保険には「予防」の項目がほとんど存在してきませんでした。

一方で、スウェーデンのように国家戦略として予防に取り組んだ国では、80歳で20本以上の歯を維持するという成果を上げており、その差は明確です。また、歯周病と糖尿病、心疾患、認知症といった全身疾患との関連も次々と明らかになり、口腔の健康がいかに大切かというエビデンスは年々蓄積されています。

2020年以降の診療報酬改定により、日本でも少しずつ予防重視の方向へ制度が動き始めました。しかし、まだ十分とはいえません。

制度が変わるのを待つだけでなく、今日からできることがあります。かかりつけ歯科医を持ち、定期検診を習慣にすること。予防への投資を惜しまないこと。そして「歯は老後の資産」という意識を、ご家族と共有すること。

私は開業してから20年、「歯の大切さにいかに早く気づけるかが、未来を変える鍵になる」と信じて診療を続けてきました。この記事が、皆さんが歯の健康について考えるきっかけとなれば、歯科医師としてこれほど嬉しいことはありません。

何かご不安やご質問があれば、ぜひお近くの歯科医院にご相談ください。私たち歯科医師は、皆さんの歯とお口の健康を全力でサポートいたします。